2016年02月20日

関西学院大学山中速人研究室3年進級課題番組「内地に住む沖縄人の多様性」

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「バイタリティー溢れる國吉賢さんのエイサーとの関わり」
関西学院大学 総合政策学部 山中速人研究室 3年進級制作番組 担当:増留稔彦

♦トーク1
今回、私がインタビューさせていただいたのは、兵庫県三田市にお住まいの國吉賢さん42歳。家族で5年前から住宅兼店舗の沖縄料理店を経営され、2007年には沖縄の伝統芸能であるエイサーのチームも創設されました。
國吉さんは沖縄県那覇市で、18歳まで育ちました。父親が眼鏡屋さんを経営しており、跡を継ぐため大阪の眼鏡の専門学校に通われました。卒業後、沖縄に帰り父親の眼鏡屋で働きましたが、向いていないと感じ始め音響関係や観光関係の仕事にも挑まれてきたそうです。仕事の先輩から、神奈川県鎌倉市の沖縄料理屋で一緒に働かないか?と誘われ数年間働き、そこで奥様で出会い結婚しました。結婚後、沖縄に戻られましたが、なかなか仕事が見つかりませんでした。そこでもう一度、本土に出ることに決め、現在の兵庫県三田市で沖縄料理店を始めました。そして、喜心伝という名のエイサーチームも創設されました。

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♦トーク2
エイサーの始まりはいつなのか等お伺いしました。エイサーは、お盆に踊られ、ご先祖様をお迎えし、楽しんで頂き、五穀豊穣を願うのが起源である念仏踊りだそうです。またエイサーの発祥は沖縄県ではなく、福島県いわき市とのことでした。1603年の江戸時代に、福島県から琉球に漂着した袋中上人がエイサーを伝えた人物だそうです。
エイサーは沖縄県沖縄市がメッカで、沖縄市内の各地域にはエイサーを踊る青年会が数多くあり、昔からずっと踊られているそうです。一方で國吉さんが生まれ育った那覇市は各地域から多くの人々が集まる街とあり、青年会がほとんど存在せず、小学校の運動会ぐらいでしか踊らないとおっしゃっていました。
國吉さんは、沖縄でエイサーを全くしたことがなく、興味もありませんでした。エイサーを始めたきっかけは、三田市に来てから、夏祭りに子供が退屈そうにしている姿を見て「ちょっと太鼓持って踊らない?」と声をかけたのが始まりだそうです。

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♦トーク3
國吉さんは、楽しんでエイサーをやりたいと思い、國吉さん一家そして地域の人達だけでエイサーを始めました。しかし、真剣にやりたいと気持ちが変わっていき一旦解散されました。そして再び、三田エイサー喜心伝という名前に変え活動を始めました。最初は人数が少なかったそうですが、今は下が小学校2年生、上は50歳といった老若男女問わず、幅広い年齢層で構成され現在30人で活動されています。人数も増えまとめるのが大変だとおっしゃっていましたが、奥様のサポートもあり活き活きと活動されています。
喜心伝は、祭りに関係がないハーフマラソンにも参加されています。目的は知名度のアップと走っている人たちに、わー!楽しいわ!と思う気持ちを共有したいという思いがあるそうです。エンターテイナーとしてのおもてなしをとても大切にされていました。

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♦トーク4
國吉さんたち喜心伝は、三田市の姉妹都市であるアメリカのキティタス州のエレンズバーグでエイサーを披露しようと試みています。本当は最初に沖縄で踊りたいと考えていたそうですが、三田市をメインに活動されているので、姉妹都市であるエレンズバーグで踊るのが一番いいなと思われたようです。子供達にも外国で沢山の事を経験させ、視野を広く持ってほしいとおっしゃっていました。
國吉さんに、本土での生活の違いについてお聞きしました。沖縄から本土に出て、自分のなまりが凄く気になったそうです。しかし、年を重ねるごとになんとも思わなくなったとおっしゃっていました。また、昔の人は沖縄人と言われることに対して、嫌な気持ちを持った人が多かったそうですが、國吉さん自身は、関西で暮らしている人も関西人と言うし気にならないとおっしゃっていました。國吉さんは、無理に本土の生活に合わせようとしていない所に、沖縄出身という誇りを持っているように感じました。
今回のインタビューを通じて、國吉さんは非常にバイタリティー溢れる方だなと感じました。同時に人情の厚い、温かい心もお持ちの方なのだと感じさせられました。みなさんも喜心伝のエイサーをご覧になってはいかがでしょうか。本日はありがとうございました。
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関西学院大学山中速人研究室3年進級課題番組「内地に住む沖縄人の多様性」

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沖縄移住と音楽
関西学院大学 総合政策学部 山中速人研究室3年進級制作番組担当:金 姫粋


<要約1>
今回私がインタビューさせて頂いた方は、日本のブルースミュージックにおいて草分け的な存在である憂歌団の内田勘太郎さんです。勘太郎さんは、もともと関西出身なのですが、21年前から沖縄に住まわれています。元々、私自身、勘太郎さんのファンで、ライブに何回か来ているうちに顔見知りになって、今回のインタビューが実現しました。勘太郎さんは、沖縄のミュージシャンである石垣勝治さんという方と出会って、何日もホテルに滞在するより、アパートでも借りてみようかなと思ったことがキッカケで、今年で沖縄に移住して、21年が経っています。今年私が、22歳になる歳なので、昔の沖縄の風景や建物はガラリと変わっていて、あの当時は、まだ舗装されていない赤土の道があったり、絶滅危惧種であるマングースの群れがたくさんいたことを聞いているうちに、私の知らない昔の沖縄の風景が目に浮かんできました。
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<要約2>
沖縄に移住されてから驚いたことが多々あったみたいです。特に、沖縄の音楽の文化に、日常にこんなにもたくさんの音楽が溢れていることに驚いていました。沖縄に住んでいると、それが習慣的なものだと思っていたため、私自身気づかずに生活していましたが、他県の人たちから見たら不思議な文化だと感じていたことに、逆に私もビックリしてしまいました。また、沖縄に住み始めてから、出したアルバムの中に、美らフクギの林からという曲があります。私は、この曲がとても好きで、曲の雰囲気が、爽やかな風がそっと吹く晴れた日に、フクギに囲まれた道を歩いているイメージを連想させる沖縄らしい曲です。フクギというのは、台風の多い沖縄によくあり、民家を守る防風林の役割を果たしています。その曲が出来たのは、石垣勝治さんが作った歌詞を見たときに、昔住んでいたアパートで、すぐメロディが浮かんだそうです。沖縄に住んでから作ったというよりは、勝治さんがいて、沖縄に住んだから出来ちゃった曲だと言っていました。そのような不思議な力が、沖縄にあるのかなと感じました。
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<要約3>
最後に、沖縄について観光客の視点で、勘太郎の思いを語ってくれました。沖縄の独自の文化と、アメリカの文化があって、それは、内地の人からするともの珍しいと語っていました。また、本土から進出してきた店がたくさん並ぶのは、沖縄らしさが無くなってしまうから、ありのままの沖縄でいて欲しいと切実に語っていました。私自身、沖縄から関西へ出た2,3年の間に、巨大なイオンモールが出来たり、高校生の時によく行っていたデパートには、本土からきたテナントがたくさん入ったりして、なんだか都会の絵の具に染まっているような気がして、寂しくなりました。しかし、沖縄の人たちは、楽天的な性格で、独特な人たちがたくさんがいて、本土の人とは少し違う感じが私は好きです。
今回、勘太郎さんへのインタビューを通して、沖縄出身沖縄育ちの私には、気づかなかった沖縄を見せてもらえたような気がします。また、インタビュー中に、勘太郎さんが、沖琉球言葉を使っているのを聞いて、とても嬉しく感じました。今回インタビューに答えて頂き、ありがとうございました。
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2016年02月19日

関西学院大学山中速人研究室3年進級課題番組「内地に住む沖縄人の多様性」

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〜喜納兼一さん、沖縄人としての78年間〜
関西学院大学総合政策学部 山中速人研究室 3年進級制作番組担当:清水亜美

◆要約@
今回私は、沖縄県人会兵庫県本部、元会長の喜納兼一さんにお話を伺いました。喜納さんは現在78歳で、物腰が柔らかくゆっくりと話して下さいました。
ご両親が沖縄県出身で、喜納さんが小学校入学前に尼崎に移られ、以降ずっと尼崎で暮らされています。高校生の時から沖縄県人会の活動に携わり、兵庫県本部の副会長、また会長も務められました。
沖縄県人会とは、本人あるいは親族が沖縄県出身者であり、その方々が日本全国または外国で結束して助け合い、親睦を深める任意団体です。国内だけでなくブラジルやハワイなど、沖縄県からの移民が暮らす多くの国や地域にも県人会があります。
喜納さんは、自身が所属する沖縄県人会兵庫県本部を通して、沖縄の本土復帰運動、また復帰後の活動も積極的に参加されてきました。沖縄復帰以前は青年部長を務め、沖縄復帰運動や沖縄に関する教宣活動、また結核患者や沖縄へ帰る人の援助などを行っていたそうです。
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◆要約A
沖縄復帰後は米軍基地を減らす活動やデモ行進の手助けだけでなく、沖縄出身者でない人に少しでも沖縄に理解と関心を持ってもらおうと、様々なイベント活動や沖縄の文化を本土でも育てる活動をしてきました。その活動の一つとして、琉球文化であるエイサーをお祭りなどの場で披露しています。沖縄県人会ではエイサーを専門に活動する「琉鼓会」という団体が結成され、5、60人のメンバーが参加しています。
このような県人会の活動に、喜納さんはどのような思いで参加されてきたのか伺いました。
沖縄返還以前は、「一刻も早く沖縄を本土に復帰させてほしい」という強い思いだったそうです。当時沖縄に行くにはパスポートが必要とされており、そのことも沖縄の本土復帰を強く希望する理由の一つだった、と喜納さんはおっしゃいます。
また、当時は「復帰すれば本土とみんな同じになれるものだ」と思っていました。しかし、現実はそうではなかったのです。少女暴行事件で明らかになったように、復帰から数年が経っても、まだまだ不便なことや本土との格差がたくさんある、と段々気づくようになりました。
現在でも基地問題があり、住民へ多くの危険が及ぶ可能性があるため「アメリカ軍基地を減らしてほしい」、それが今の思いだそうです。
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◆要約B
喜納さんにとって沖縄とは、どういう存在なのか伺いました。
「自分のルーツだと思っている。私の子供たちとか孫たちは沖縄をどのように思っているかわからないけども、それはそれらの人が考えることで、私自身は自分の故郷は沖縄だと思っている。」
この言葉を聞いて、ルーツの大切さを改めて実感すると同時に、ルーツがない人はこの世に存在せず、その原点があるからこそ、今の自分が存在しているのだと私は感じました。
また、喜納さんに沖縄人としての誇りを話して頂きました。
沖縄は元々土地が広くて作物が良くとれるという所ではない、と喜納さんはおっしゃいます。しかし一方で沖縄は海に面しており、地理的には、東アジアや東南アジアの各地の中継地としての位置をもってきました。そのような地域に、何百年も前から小さい船で渡って商売をしてきた「海洋民族」であると喜納さんは思っているそうです。その上沖縄の文化は、東南アジアの民族や芸能、朝鮮、中国などの多様な文化を吸収してきた文化である、とおっしゃいました。
今回お話を伺って、喜納さんは本土にいながらも自身の原点を大切にし、一生をかけ、沖縄人として力を尽くしてこられたのだと感じます。沖縄のために、少しでも何かをしたい。その気持ちが人々を奮い立たせ、本土と沖縄の関係やその未来を変えていくのだと思いました。
posted by fmyy at 17:38| Comment(0) | ポッドキャスティング | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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