タイトル:知ってるの?こんな時代もあったよ!
担当:関西学院大学総合政策学部山中速人研究室 3年 邵 丹
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◆トーク1
奄美出身の三ヶ島諒子さんに自分の故郷沖永良部島をご紹介していただきました。
沖永良部島は、百合の花、富士茶の花と鍾乳洞、永良部で有名な観光地です。青い海、白い珊瑚礁、魚の泳ぎも見えるぐらい、きれいな景色があります。その美しい島で育ったた三ヶ島さんは、昔の生活を思い出しながら、話してくれました。
6人兄弟の家庭に育って、テレビはもちろん、服も兄弟の間で順番おにさがりで着ていたそうです。今では想像できないほどとても貧しかったそうです。当時、ちゃんとしたトイレもなくて、農産物をよく成長するために、その肥からできた“肥料”を使っていました。そして、学校の設備が不十分で、苦しい環境で学校生活を過ごしました。今の人が想像できない生活でした。
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◆トーク2
当時の沖永良部島では畑の砂糖黍をとって製糖会社に持って行って、賃金をえるというぐらいしか現金収入はなかったのです。そして、電車も飛行機もなくて、交通手段は船とバスだけでした。一時間一本のバスは都市と違って、手を挙げたら乗せてくれるらしいです。みんなが知り合いですから。
しかし、戦争が起きて、アメリカの戦闘機が飛んできたとき、電灯を使えず月夜に下でみんなでご飯を食べた事も、アメリカ兵の偉そうな顔も頭の中に残っています。
沖縄と奄美諸島は、戦後何年も日本復帰ができなかったです。老若男女に問わず、島民のみんなが島の海岸を回って、大規模な復帰運動をしました。1953年にようやく日本に復帰しました。みんなが大変喜び、万歳、万々歳を呼びながら、島を回りなました。
その時に本土から様々な物資が運ばれてくるようになり、まちがにぎやかになりました。三ヶ島さんはゴムの靴を買ってもらって、大変嬉しかったそうです。
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◆トーク3
島に現金収入がないから家計を助けるため、神戸にいるおばさんを頼って、島を離れました。一泊二日をかけて、神戸につきました。信号機があるし、人が多いし、にぎやかな商店街があるし、楽しかったです。そして、工場で主人に出会い、今年結婚50年を迎えました。お互い元気で、幸せな日々を送っています。
私は中国の大連からの留学生です。
日本と中国は近隣国で、生活習慣や、文化など様々な面で共通しています。私のおじいさんやおばあさんの話でも、昔は服は親戚の子どもたちの間で、順番に回す事、信号機や電車がなかったこと、お祝いする時には豚を殺してみんなで食べることなどを聞いていたので、三ケ島さんの沖永良部の話とは全部一緒でした。
私もおばあさんの話を聞いて、昔の生活を想像しながら、今の幸せの生活を感謝しています。